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第八章 秘めた決意

作者: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-09-06 10:33:23

 昼休みの時報と共に研究所のガラス張りの建物を出ると、午後の陽射しが白いコンクリートの路面にまぶしく反射していた。

 近くのカフェは小さな路地に面した静かな店で、大きな窓から柔らかい日差しが差し込み、木製のテーブルに薄い影を落としている。

 店内はコーヒー豆を挽く香ばしい匂いと、微かに焼きたてのパンの香りが漂い、低い話し声とカップがソーサーに触れる小さな音だけが、穏やかに流れた。

 澪は窓際の席に座り、ノートパソコンを開く。いくつかの法律事務所のサイトを比較し、離婚問題を専門に扱う事務所の無料相談フォームを開いた。

 名前は伏せたまま、匿名での問い合わせをする。指先が、わずかに震えた。

『離婚を考えています。相手に不貞の可能性がある場合、どのような証拠が必要でしょうか。また、財産分与についても教えてください』

 送信ボタンを押すと、予想より早く返信が返ってきた。

 画面に文字が静かに浮かび上がり、カフェのエアコンの低い音が背景に溶けていく。

 ――不貞の証拠は、写真やメッセージ、振込記録など客観的なものが有効です。同時に、婚姻期間中の財産の流れも確認しておく必要があります。

 ――離婚を進める場合、共有財産の把握と整理が重要になります。感情的に動く前に、冷静な準備を推奨します。

 澪は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。

(――証拠と財産整理か)

 これまで「離婚したい」と心で思っても、具体的な手段までは考えていなかった。

 けれど今は違う。もう、曖昧なままではいられない。

 カフェの壁にかかった時計の針が、静かに時間を刻んでいる。

 その夜。智也が遅く帰宅する前に、澪は寝室のクローゼットを開けた。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から街灯の光が細い筋となって床に落ちている。

 クローゼットの奥にしまった小さな箱を取り出し、中身を確認する。

 箱の木目が指先に冷たく伝わり、蓋を開ける音が静まり返った部屋に小さく響いた。

 過去の通帳のコピーと智也の名刺や、昔のメールの印刷。そして、あの振込控え。一つひとつを丁寧に、ファイルへ移していく。

 紙の擦れる音を最小限に抑え、感情を殺すように。

 ふと手が止まった。箱の一番下に、まだ新しい封筒が入っている。

 白い封筒が、ランプの光を受けて鈍く光っていた。

***

 同じ日の夜、いきつけの高級ホテルのラウンジで、智也はグラスを傾けていた。

 最上階近くのラウンジは、深い赤みを帯びたカーペットと、天井から吊り下げられたクリスタルの照明に包まれている。

 空気には上質な香水と、グラスに注がれたウイスキーの穏やかな香りが混じり、低いジャズのメロディが空間を優しく満たしていた。

 向かいには琴葉が、見惚れるような上品な笑みを浮かべている。

「今日は遅くまで、ありがとうございました」

「いいさ。体調はもう大丈夫なのか?」

「ええ。おかげさまで」

 琴葉は少し身を乗り出し、声を潜めた。

 テーブルのキャンドルが揺れ、二人の影が壁に長く伸びる。

「でも……奥さんには今日のこと、黙っていてくださいね」

「分かってる」

「よかった」

 琴葉は安心したように笑った。彼女の目が細められ、グラスの縁に触れる指先が優雅に動く。

 智也が苦笑すると、グラスの中で琥珀色の液体が揺れ、氷がカランと小さな音を立てた。

「分かってるって。余計な心配はかけたくないからな」

「さすが、御子柴さんです」

 琴葉は満足そうに目を細めた。

 その笑顔の裏に、何が隠れているのか。智也は深く考えようとしなかった。

 ラウンジの照明が彼女の横顔を柔らかく照らし、夜の都市の光がガラスに映って、まるで別世界のようにきらめいていた。

***

 深夜。智也が帰宅する音が聞こえても、澪は寝室から出なかった。

 玄関の扉が開く音、靴を脱ぐ音、リビングの照明が点く音――すべてが壁越しに微かに伝わってくるが、澪は動かなかった。

 部屋はほとんど灯りを落とし、ベッドサイドの小さなランプだけが黄色い光を放っている。カーテンは完全に閉じられ、外の街灯の光すら遮断されていた。

 静かに封筒を取り出し、中の紙を広げる。

 銀行振込受付票。振込金額――五千万円。

 紙の質感が指先に冷たく、印字された文字がランプの光を受けてくっきりと浮かび上がる。

 送り主:御子柴智也

 受取人:白石琴葉

 そこに三年前の日付が、はっきりと印字されていた。

 部屋の空気はひんやりと冷え、時計の秒針が規則正しく時を刻む音だけが響いている。遠くで、誰かの足音が廊下を過ぎていく。

 澪は紙の端を指でなぞった。怒りでも悲しみでもなく、ただ静かだった。紙の表面を滑る指先が、わずかに震えている。

(――これも、証拠)

 そう心の中で呟き、振込控えをファイルの一番上へ収めた。ファイルの表紙が閉まる小さな音が、暗い部屋に小さく響く。

 澪はファイルをクローゼットの奥へ戻し、ベッドに横になった。マットレスが体を受け止め、シーツの感触が冷たく肌に触れる。

 隣の寝具は、今夜も空いたままだった。

 白いシーツがランプの光を受けてぼんやりと浮かび、誰もいない空間が、静かに広がっているだけだった。​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

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